追い込まれた岡田ジャパンから有終の美へ チームを蘇らせた要因とは何であったのか? 【オシムー岡田】ジャパンの軌跡 part4
南アフリカW杯での、
日本代表の戦いは終わりました。
そこで、
これまでの4年間を振り返っていきたいと思います。

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ワールドカップイヤーとなる2010年になりました。本番まで残り半年となるなかで、岡田ジャパンが最初にやった事は、新戦力の模索と、どの布陣がベストなのか、という事の模索でありました。そして、その新戦力という事で言えば、注目されたのは、平山と小笠原、という2人でありました。
前線で起点となれる1トップという事で、その当時、調子の良かった平山を試した訳ですが、ここで注目したいのは、岡田監督は、いちおうこの時に、堅守カウンター型への変更を模索してはいた訳ですね。小笠原を招集し試した事も、その1つであったように思います。つまり、岡田監督のカウンターサッカーの考え方というのは、フランスW杯時代には城もしくは呂比須、マリノス時代には久保、そして、南アフリカW杯では本田を1トップに起用したように、最前線にしっかりボール収められるような、しかも、ポストプレイヤータイプの選手が必要だ、という考え方で、そこが私の考えるカウンターサッカーへの考え方との違いでもある訳ですが、まあ、それはともかく、そのために平山が使えるかどうか、それを試し、更には、カウンターサッカーでJリーグ連覇を成し遂げている鹿島で、要となっている小笠原が機能するかどうか、それを試したという訳ですね。
そして、結論から言うと、それが上手くいったかどうかというのは、微妙なところでありました。平山に関して言うと、確かにべネスエラ戦では、途中投入して機能したのですが、2010年2月6日、東アジア選手権、中国戦では、同じく途中投入されましたが、あまり機能性は見られず、続く、香港戦でも後半から起用されましたが、香港相手にもあまり良いパフォーマンスは見せられず、最後の韓国戦では起用が無かったという事で、平山をW杯でも使うという事の目処は立たなかった、という事でありました。
一方、小笠原の方はどうかと言うと、そこには、岡田監督と小笠原の考え方の違いというのが出てしまって、岡田監督の場合は、ボールを奪ったら、とにかくまずは前線のポストプレイヤーにボールを当てて、そこで「ため」を作って、後ろから攻撃参加して行くという、いわゆるキック&ゴーのカウンターサッカーである訳ですが、小笠原の場合は、それよりも、もう少しサイドを広く使ったようなカウンター、つまり、大きなサイドチェンジというのをその中に織り交ぜて、という事であった訳ですが、その辺りの考え方の相違というのが、結局は、小笠原を外した要因にもなったように思います。但し、もちろん、それだけではなく、小笠原自身のパフォーマンスも、あまり良いものではなかった事、それも大きな要因ではありました。

と言う事で、海外組が不在の中、新戦力を模索した岡田ジャパンでしたが、それは成果を挙げる事ができませんでした。そして、今考えれば、この事が、一度は少し、カウンターサッカーへの変更を模索していたにも関わらず、それを岡田監督に断念させてしまい、やはり、ハイプレス&ポゼッションのサッカーでやっていくしかなんだ、という方向性へ戻ってしまった、その原因になってしまったかなと思います。
しかし、ここでのカウンタースタイルへの変更というのは、中途半端だった、という事があって、布陣はこれまでと同じ「4-2-3-1」や「4-2-2-2」で、後に南アフリカW杯で使用した「4-3-2-1」という3ボランチシステムではありませんでしたし、ハイプレスは少し控え目になっていましたが、相変わらず、前線で交通渋滞を起こすような、攻撃の時には前に人数をかけていくという戦い方はしていて、そういう中途半端さも、ここでのカウンターサッカーへの転換が上手くいかなった原因でもありました。ちなみに、東アジア選手権の結果は、中国戦は「0-0」の引き分け、香港戦は「3-0」の勝利、韓国戦は「1-3」の敗戦、という事でありました。

また、そのような、メンバーやスタイルという事ではなく、もう1つ、この時点で大きな問題になっていた事があって、それは、ファーサイドと3人目の動きを使う、それが無いという事でした。2008年10月9日のUAE戦あたりからずっと、この時点に至るまで、岡田ジャパンというのは、ニアを使うという事を攻撃のテーマとしてやり続けていて、つまり、センタリングはニアに入れて、そのニアに選手が飛び込んで勝負をする、という事と、もう1つには、PA内の横のゾーン、そこに選手が入り込んで、そこにパスを入れて起点を作る、という事を意図したものであった訳ですが、しかしその事によって、日本の攻撃というのは威力を失っていました。
日本の場合は、FWに高さのある選手が不在で、全体的に、CBの中澤と闘莉王以外は高さが無いですから、普通にセンタリングを上げて、高さでの競り合いとなって得点を決めるのは難しい、という考え方の前提があって、故に、ニアで勝負しよう、という意図であった訳ですが、しかし、ニアというのは角度が狭くなってしまって、シュートを決めるという事が難しいし、相手DFも前には強い選手が多いですから、なかなかDFの前のニアに飛び込んでも、シュートを打たせてもらえない、という状態になっていて、これは、コンセプトとしては間違っていたと、私は思っています。
やはり、ゴールが生まれるシーンの多くというのは、ファーサイド、相手のDFの背後、そこでありますし、そこを起点とした時だと思いますので、実際、この後のバーレーン戦で、岡崎がヘディングゴールを決めたのはファーサイドでありましたし、南アフリカW杯のカメルーンでも、本田がゴールを決めたのはファーサイドでした。従って、このあたりの事というのは、ハイプレス&ポゼッションもそうでありますが、かなり偏った固定観念による、日本らしいサッカーとか、日本人の特性を活かしたサッカーとか、そういうものに拘り過ぎていて、その前にある、サッカーのセオリー的なもの、実力が劣るチームは堅守カウンターで戦うのがベターなんだ、とか、背が低いとか高いとかに関係なく、チャンスというのはファーサイドで主に生まれるんだ、とか、そういうものを無視してしまっていた、という事であると思う訳です。

2010年3月3日、アジアカップ最終予選、バーレーン戦、日本は「2-0」と勝利します。この試合では、本田、松井、俊輔、長谷部、という選手が全て揃い、2010年に入ってからの、岡田ジャパンのデキの悪さを払拭したような試合となりました。しかし、そんな一安心の状態も束の間、2010年4月7日に行われたセルビア戦で「0-3」、そして、2010年5月24日に行われた韓国戦で「0-2」、岡田ジャパンは地獄に突き落とされる事になります。

参照: セルビア戦 「もしこういう戦い方をW杯でもするならば、この試合と同じような結果になる3試合が待っているだけ」

参照: セルビア戦後の岡田監督のコメントから「チーム作りとか、3バックとかポゼッション率とか、くだらない精神論とか」と言う事について。

参照: 韓国戦 「試合後半の途中から、泣き出したい気持ちで一杯でした。実に情けない。こんな代表がW杯に出場しても良いのか?」

参照: 韓国戦後の岡田監督と俊輔と本田のコメントから、今の日本代表に何が必要なのか? 俊輔は何を変えなくてはならないのか? と言う事について。

参照: 岡田ジャパンが残りの時間で実行すべきと個人的に考える2つの事。

そして、このセルビア戦と韓国戦の惨敗が、岡田ジャパンの最後の転換地点であり、最も大きな転換地点でありました。それは、選手たちからの提案によって、戦い方を、今までのハイプレス&ポゼッションから転換し、守備ブロックをしっかり作った、堅守カウンターサッカーに、大きく変えるという事でありました。と言う事で、2010年5月30日、オーストリアのグラーツで行われた、イングランド戦、日本代表は、阿部をアンカーに起用した3ボランチ、「4-3-2-1」を初めて試します。
結果は「1-2」、CKから先制するも、2つのOGで逆転負けするというものでありましたが、守備面に対しての手応えは、確実にありました。次のコートジボワール戦、この試合は、「4-3-2-1」ではなく「4-2-3-1」でしたが、ハイプレスではなく、まずは後ろにしっかりとした守備ブロックを作って守備的に戦う、という方法を採ったために、結果は「0-2」という敗戦でしたが、やはり守備面での手応えというのは感じさせていました。

但し、1つだけ残っていた問題は、イングランド戦でもコートジボワール戦でも、本田は右サイドで起用していた訳ですが、これが攻守両面で、あまり機能していなかった、という事でした。そこで、岡田ジャパンは、急遽、ジンバブエとの練習試合を組み、そこで本田を1トップに起用した、「4-3-2-1」という布陣を試します。このジンバブエ戦は、試合中継などがされませんでしたので、どういう試合になったのかというのは分かりませんでしたが、どうやら、本田の1トップという布陣に、それなりの手応えを見い出せたようでありました。

そして、迎えた、2010年6月14日、南アフリカW杯、1次リーグ、初戦のカメルーン戦、日本代表は、本田の1トップ、左に大久保、右に松井、3ボランチに、遠藤、阿部、長谷部、SBの左に長友、右に駒野、CBに中澤と闘莉王、GKに川島、という「4-3-2-1」で戦いました。

参照: カメルーン戦 「夢のような勝利」

参照: カメルーン戦後の岡田監督のコメントから「守備のために攻撃を、徹底的な分析と対策を、臆する事の無い戦いを」と言う事について。

参照: オランダ戦 「今の日本代表ができる、ほぼ精一杯の結果」

参照: 俊輔と闘莉王はどちらが考え方として正しかったのか? という事について、オランダ戦後の岡田監督のコメントから。

参照: デンマーク戦 「FK2発! これぞまさに岡田ジャパン! 決勝T進出だ!」

参照: ダブルボランチが機能しない理由、そして、成長の鍵は判断力、という事について、デンマーク戦後の岡田監督のコメントから。

参照: 本田の1トップ起用、論調に対する危惧、フォーメーション、現実を受け入れる、意識の変化、という事について、デンマーク戦後の選手のコメントから。

参照: 岡田監督への評価が高まりつつあるなかで、あえて空気を読まず、岡田監督批判のようなものをしてみる。

参照: パラグアイ戦 「泣くな駒野! 日本は負けなかった! 日本は負けなかったんだ・・・」

参照: 岡田ジャパンではなく日本代表だったチーム、岡田監督の反省点、本田圭佑と中田英寿、という事について、パラグアイ戦後の選手と岡田監督のコメントから。

参照: 今回の日本代表チームを、日本らしくないチームだった、日本選手の特性を活かしたチームじゃなかった、と考えるのは、浅はかな見方であると、私は思っています。

と言う事で、日本代表は、見事決勝トーナメント進出。そして、決勝トーナメント1回戦、パラグアイ戦、PK戦で涙を呑む。という結果で、2010年の南アフリカW杯を終えました。個人的な総括としては、上記参照の最後の2つのエントリー、そこに書いた通りであります。ドイツW杯での惨敗を受けて、かつてのような熱狂的な盛り上がりが沈静化し、その中でも着実にオシムジャパンは南アフリカW杯への準備を整えていましたが、それは途中で頓挫する事になってしまいました。そして、その後を受けて発足した岡田ジャパンでしたが、その2年半のほとんどが、苦難の連続でした。
この南アフリカW杯でも、3敗するんじゃないかという事が、私もそうでしたし、世論の一般的な見方でした。しかし、最後の最後に来て、戦い方の大幅な転換を実行したという事、そして、予想以上の個々の選手の高いパフォーマンスもあって、アウェイのW杯での初勝利と初予選ステージ突破、そして、ベスト16、という好成績で終える事ができました。選手たちが自ら戦い方を選択し、結束を固め、初戦のカメルーン戦に勝利できた事、それが大きかったように思います。そのカメルーン戦の勝利によって、選手もチームも、試合を通じて自信を深め、成長していく姿がハッキリと感じられました。そういう意味では、この南アフリカW杯は、フランスW杯よりも、日韓W杯よりも、ドイツW杯よりも、印象深く、意義深い大会になったのではないかと、私は思います。この日本代表の躍進によって、再び日本サッカーに熱い時代が戻ってくる、その事に期待して、この【オシムー岡田】ジャパンの軌跡を終えたいと思います。

以上。



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【2010/07/08 11:45】 | 岡田ジャパン考察 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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コメント
コーチ・技術委員の役割
 寝不足期間中のはずなのに完全保存版になる4年間の軌跡。お見事です。
 オシムの目指した日本流のトータルフットボールの完成が見たかったですね。最終的には、今大会のドイツ・スペインの中間or両方というサッカーが(縮小版で)見れたのかも。チリの目指したトータルフットボールとはちょっと違うものだったのではなかろうか。
 ここからは、丸っきりの妄想ですが、オシム体制のコーチ大熊・反町両コーチを将来の日本代表監督にというところまで、オシムは背負っていたのでしょう。ただし完成形を見る前にオシムが倒れてしまったために、両氏はその全容をファンと同様理解できなかった。そして、五輪監督に専念した反町監督は再現出来ず、もがいた。小野技術委員は、オシムサッカーを継承すべく、カタネッツを呼びたかったが出来ず、ペトロビッチ広島はJでの成績が振るわず、ストイコビッチは実績なし。Jでスモールフィールド・ポゼッションサッカーを目指した大木コーチに目を付けたが、実績不十分の為、フランスW杯の盟友岡田監督にお願いした。それによって、堅守の岡田・大熊、攻撃的な大木を融合して、オシムの日本版トータルフットボールを実現しようとしたのではなかろうか。様々な事情で、ハイプレス・ポゼッションサッカーが全面に出てしまい、スペイン大好きの原技術委員長に変わったため、さらに加速。結果が出なくてもやり続ければ・・・・となってしまった。
 W杯直前岡田監督・選手が訣別したのは、「サッカーの日本化」という言葉に踊らされた根拠も能力の裏打ちも無い戦術からの脱皮しただっただけなので、決定的にチームが崩壊するまでには至らなかったのではと妄想する次第です。
 監督の英断ではなく、選手の造反であったと思いますが、岡田監督から先発メンバーの決定・交代といった権限が奪われなかったのは、もともとそこにしか権限がなかったのでは?と考えます。メディアの発表・記事などの根拠の全くない妄想です。
 
【2010/07/13 10:26】 URL | noz #-[ 編集] | page top↑
非常に面白いエントリーでした。一気に読んでしまいました。
【2010/07/10 14:07】 URL | 二位 #-[ 編集] | page top↑
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