「美学」とは「自分のやりたいように生きる」ということなのでしょうか?10年で引退する計画を立て、常に引退後の人生を考えながらサッカーをしてきた選手を必死で応援してきた我々は何だが間抜けですよね。
それから「ヒデが決めたことだから間違い無い、彼の判断を尊重します」という発言を、選手を含め多くの人がしていますが、ずいぶん大人な発言ですよね。甘いというか・・・。彼に対し真っ向から「逃げるのか!」と文句を言えないからダメなのでは?間違ってることは間違っているとハッキリ言えるのが友達でありチームメイトであり仲間なのでは?私はもっと彼の引退宣言について激怒する人がいてもおかしくないと思っていましたが、裏を返せばこれが中田英寿の現状だったのでしょうね。真剣に彼の行動に怒り、思い留まらせようとする仲間は存在しないということです。まだ彼の周りに年上や同年の選手が多かったときには、そういう選手たちの
「寛容さ」によってヒデは孤立しませんでしたが、逆の立場になった時、ヒデは後輩たちに
「寛容さ」を見せることができませんでした。部下や後輩を率いる時に「俺について来い!」とか「指導・教育」したりとかするだけではダメなのです。むしろ必要なのは「
寛容」「謙虚」「公平・平等」「ビジョン」「信頼」「見ぬく目」ということで「教育」はその一つのファクターに過ぎません。
「寛容」さは人を惹きつけ意見の交換を活発にします。「謙虚」さも人を惹きつけ意見の交換を活発にします。「公平・平等」も同じです。その上で「ビジョン」明確に示せば人は自分について来てくれます。そして仲間を「信頼」し、人の適正を「見ぬく目」を持っていればリーダーとして仲間を牽引することができるのです。そこまでチームワークができた後に初めて「教育」や「指導」が効果をもつのです。「寛容」「謙虚」「公平・平等」「ビジョン」「信頼」「見ぬく目」という前段階を無視して、いきなり「教育」「指導」では反感をかうばかりです。「時には励まし、時には怒り、時には相手を怒らせてしまったことがあります」つまりそれについてのエクスキューズからは逃げて引退してしまったということで、だから私は、
「ヒデのサッカー人生はまだ折り返し地点だ」と主張するのです。それは「孤高」から「指導者」へと立場が変って、さらに自分の人間性を高めるサッカー人生が彼には残っていたからなのです。自分がまだ若輩者の頃には「自分を高めるのに精一杯」で「我侭」であることも許されますが、自分が年長者となり指導者的な立場になったときには、もうそれは許されないのです。だから僕は彼の引退を支持しませんし、リスペクトもしません。ただ
「怒る」のです。
「もともとサッカーなんて別に好きじゃなかった」
「日本代表なんて興味ない、クラブチームでプレーしてればいい」
「サッカーだけが人生じゃない」
最初のは絶頂期の前園の言葉。2番目はファルカンジャパンの10番として批判の矛先となった岩本が代表を外された時の言葉。最後は中田英寿の言葉。どうですか?どれも同じフレーズに聞こえませんか?批判が高まると「たかがサッカーじゃないの、何熱くなってんの?」という逃げの発言というか態度にしか思えません。しかし前園は某テレビ局のサッカー解説者としてチャラチャラ仕事して人生舐めてる感じが滲みでてるし、岩本はグランパスに移籍後怪我で引退しNHKの旅番組をしていたものの今は復帰を目指しているとのこと。ヒデは有名大学進学?実業家?何だかプロサッカー選手になりたくてなりたくて、それでも夢破れた人たちの思いを踏みにじるような行為だと思いませんか?
最近本当に人生に保険をかけながら生きている人多いですよね。高学歴の芸人、芸能人でありながら大卒を求めるアイドル、タレント化する弁護士・医者・大学教授・漫画家。女優になりたいフィギュアスケーター。ダメなら別の所へ。そんな感じですよね。ひとつのことをとことん追求するというプロ意識は、古臭く、時代遅れの考え方ということなのでしょうか?でも、これってただ単に現実逃避なだけなのではないのでしょうか?目の前にある壁やプレッシャー、それを乗り越えるのではなく、安易に「別の道もあるじゃん」「本当は別にやりたいことがあるんだ」と簡単に切り換えてしまう。ヒデの人生はヒデの人生、他人の人生は他人の人生、周囲の人間がとやかく言うことじゃないよ、そう言われてしまえばそれまでですが、自分を励まし応援し続けてきたファンや自分を育ててくれたサッカー界に対して「恩返し」をする責任は果たさなくていいのでしょうか?
「今まで応援してきてくれた人たちに心の底から一言。ありがとう」
冗談じゃないですよ。「ありがとう」ではなく「すいません」ならわかりますが。ヒデはもう一度よく考える必要があるのではないでしょうか?
日本のヒデ人気に外国のサッカー界や選手は呆れていますよ。「彼はサッカー選手ではなくタレントか?それともモデルか?」と。日本のマスコミにヒデのことを訪ねられる外国人選手はみんな一様に顔を曇らせますよね。「並の選手じゃないか、知らないし、興味もないよ」明らかに表情はそう語っています。世界のナカタは日本人がそう思っているだけ。日本と言えばナカタしか思い浮かばないからそう言っているだけで、別に世界が認めたわけじゃない。
まあ、言ってしまえばヒデはチームワークが大切なサッカーには向いていなかったのでしょう。個人競技の方が向いていたのかもしれません。北島や高橋尚子のように「チーム自分」で全てを自分中心にする方が良かったのだと思う。現にヒデは「チームナカタ」を作ってますしね。団体競技で「チーム自分」作ってしまったら他選手との壁が出来てしまうのは当然ですよね。「今の選手は対話ができない」「衝突することを嫌う」彼にそう言って他選手を非難する資格があったのか疑問です。かつてイチローが盗塁王を争っていたとき、大差がついて、いまこのタイミングで盗塁すれば100%成功できるが、意味や価値がない盗塁をしたイチローの盗塁をメジャーリーグは盗塁として認めませんでした。盗塁したのに記録として盗塁を数えなかったのです。日本人に対する差別だ、と言われましたが、私は当然のことだと思います。日本サッカー界におけるヒデの存在はこの「イチローの盗塁」と同じように感じます。彼が自らの価値を高める為にしたことは日本サッカー界に何の功績も残していません。「日本には一生帰るつもりはない」そう豪語する外国かぶれの彼に日本人である我々は何を期待するのでしょうか?
トルシエが嫌われた理由の一つは「トルシエは自らの価値を高めることに夢中で、自分の手柄を横取りするような選手は嫌った」ということがあったと思います。ヒデと他選手との溝もそこにあったと思っています。チームの為ではなく自分の為。我々よりも近くにいた選手たちがそれを感じなかったわけがありません。フランスW杯。惨敗した日本代表。最後のW杯になるだろうと思っていた中山が骨折しながらも意地のゴールを決め、井原が大粒の涙を流して悔しがっていたのに対して、当時、未来ある若者であったヒデや城などが試合後ピッチでヘラヘラと笑っていた姿が目に浮かびます。ドイツW杯で見せたヒデと他選手の温度差と同じですよね。次もある選手と次は無いと思っている選手とでは温度差があるのは当たり前です。ヒデだけ頑張った?孤軍奮闘した?日本の未来の為に?チームの為に?ジーコジャパンの為に?いや、自分の為にでしょ?そういうことですよね。
しかし、よく考えてみたら、そういう選手が一人引退したところで、日本サッカーに大きな影響を与えるとは考えられません。もう引退した選手の批判を書き連ねたところで、逆に私が「心無い」と批判されてしまうかもしれませんしね。ただ、この怒りは何でしょうか?彼本人に対してと言うよりも、彼に対する周囲の反応に対してかもしれません。日本は「堀江貴文」という身勝手な若者を時代の先駆者としてもてはやした失敗をもう忘れてしまったのでしょうか?ホリエモンは自らの価値を高めることに必死で社会的な貢献は皆無でした。それでも「賢人」と褒め称えた反省は無いのでしょうか?私にはヒデが「サッカー界のホリエモン」に見えて仕方ありません。
ということで最初の「美学」とは何ですか?という疑問に戻りますが、「美学」とは「初志貫徹」という言葉に近いと思います。しかし、今回のヒデの引退が彼の「美学」を貫き通した結果だったのでしょうか?彼は「半年前から決めていた」と語っていますが、もし今大会で日本が勝ち進み、彼も大活躍していたら、このタイミングで引退したでしょうか?「美学」を貫くということは、予選で敗退しても優勝しても引退するということですよね。正直とてもそうは思えません。なぜ「ドイツW杯を戦ってみてもう自分の力の限界を感じた」と正直な気持を語らないのでしょうか?そこまで彼を責めるのは過酷ですか?確かに彼も語っているように「自分探しの旅」と称した「もう一度自分を見つめ直す」行為は必要かもしれませんね。自分を偽り、自分に嘘をつき、素直になれなければ成長は望めませんから。あまり若い選手が彼の生き方に憧れを抱かないように願いたいですね。